私は精神的なことに興味があるから、色々調べたりして自分なりに勉強するけれど
鬱だったり、ひきこもりだったり、空気が読めなかったりするアスペルガー症候群だったり、そして最も重いといわれる統合失調症の症状だって、いっぱいあてはまる。
私の中では、”本当の自分” ”神様” と感じている存在からの声が聞こえたりもするし、映像を見たりもする。それも、聞く人が聞けば、幻聴・幻覚 と言われるのだろう。
いわゆる精神科には行ったことがないけれど、いっそ病名をもらったほうが楽かもしれないなんて思ったことは何度もある。自分の症状をすべて話せば、一体いくつの病名がつくだろう?お医者さんは困るんじゃないかなと想像したりした。
よほどの先生でない限り、私の話を興味深く聞いたりしないだろうし、考えることといったら、どの病名があてはまるのか、どのお薬を渡せばいいだろうかってことなんだろう。
そんなの想像するだけで、もっと心が暗くなる。
私は、自分が病気じゃないこと、薬なんて必要ないことも、飲んだら最後、人間としての素晴らしい感性を殺されてしまうこともわかっていたから、自分で向き合うしかなかったし、向き合いたかった、
興味津々だった!
そもそも、それが生きるってことなんじゃないのかな?
少なくとも私の場合はそうだったし、今もずっとそうだ。
とはいえ、そんな感覚が突然開いてしまってからの数年は、精神的にかなり不安定だった。
わけもなく怖くなったり、不安になったりして、その感覚に振り回されていた。
そんな時は、怖い声が聞こえたり、怖いものが浮かんだりする時期があった。
いわゆる統合失調症の人の、”四六時中、その恐怖とともにいる” というほどのものではなかったけれど、それでもとても怖かった。
だから、統合失調症の人の恐怖を想像すると、何とか助けてあげたい気持ちに駆られる。
少しでも自分に出来ることはないかと思わずにいられない。
自分の家族も、まさにその病気と今も背中合わせにいるから、気が抜けないし、”知りたい”という気持ちがとても強い。自分なら理解できるんじゃないか?と思わずにいられないのだ。
私のわずかな経験からだけど、今精神的に不安定で、怖いものを感じたり、聞こえたり、見えたりして苦しんでいるひとは、こう思ってみたらどうかな?と思う。
「どうせ(見えない世界を)感じるなら、怖いのより、神様とかがいいな」
私は、そう思った。
そして、
「じゃあ、神様に好かれる人間になろう!」
と決心した。
その日から、自分に何か嫌なことがあったり、人を責めたくなったりしたとき、
自分という個人目線で物事を見るんじゃなく、
「神様だったらどうするかなー、、」
と考えるようになった。
毎回の答えに共通することは、
「神様はみんなを愛している」ということだ。
どんなに私が、「絶っっっ対、私は悪くない!!」と思うようなことでも、
その理屈は一度も通ることは無かった。
いつ、いかなるときでも、
神様はみんなを同じように愛していた。
だから、みんなにとって良い解決方法はないか?
と考える必要があった。
そう考えると、神様は私を味方してくれる。
「そうか、みんなを大切に思ってくれるんだね、ありがとう。」
と、私には無い知恵を授けてくれるのだ。
気づけばもう、怖いものは感じなくなっていた。
自分にとって説明するなら、神様とか本当の自分とか、巨大迷路の最中でぐるぐる迷っている自分を、空から見守りナビゲートしてくれるような存在を感じていた。
「信じるものは救われる」
私にとって、おそらくみんなにとって、問題を解決する唯一の方法はそれしかない。
それ以外に、本当に物事が解決することはない。
解決したとすれば、それは解決したように見えるだけだ。
根本的には解決していないはずである。
勝ったり、負けたりしているはずである。
本当に解決したときは、どんな相手(人や病気や出来事)にも最後には「感謝」しているのだ。
病気の人は、おそらく、誰よりもそういうことを求めて生きてきた人であり、私たちにもそう考えるきっかけをくれているのである。
そう考えると、病気の定義さえ、ひっくり返ってしまいそうになる。
治すべきは、私たちの意識のほうで、みんながそう気づいていけば、
精神病の人はいなくなるんじゃないかと思う。
そして、それは精神病にも限らず、あらゆる病気・事故・天災・・・その全てが必要なくなって
ついには世界に平和が訪れる。
ああ。どうか、そうなりますように。というのが、私の頭の中の妄想なのである。
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