昨日、自分の心の苦しみと向き合って、半日ぶっ倒れていた。
ほとんどの人は、我が子や親、または他人を心配することで、自分の苦しみを相手に流して楽になって生きている。
他人同士の終わりのない気の使い合いは、そんなキャッチボールのわかりやすい例だ。
本当に必要な助け(その必要は、滅多に無い)以外、貰えば貰うほど苦しいのは、皆んなが経験していることだろう。
今日は自分の中に、他人を心配することで楽になっている自分をまた見つけたので、それと向き合っていたのだ。
「あ、私この人を心配することで、自分の苦しみを流している」
そう気付いた瞬間に、相手に流していた苦しみが自分に帰ってくる。
すると、途端に苦しくなってぶっ倒れてしまった。半日身体が動かない。
もう、ただジッと受け入れるしかない。
私はこれまで10数年、ずっとこの作業をしてきた。
見てみぬ振りをしている自分の苦しみを、残らず集めてきた。
主に我が子から回収した。
我が子を心配しないように、気にしないように努め、心配したときは、心配してしまう原因、種を自分の中に見つける作業を、見つかるまでやってきた。
ただひたすら、せっせせっせと自分を治して、癒やしてきたのだ。(それと比例して子供は落ち着く。子育ての真髄はこれだと思う。)
今回のそれも、これまでと同じ作業なのだが、
いつもと違う感覚があった。
これまでどおり、私の苦しみの一片、1ピースなのだけど、
今回のそれが自分に帰ってきた瞬間、
自分にとって大切な宝物、自分を構成する大切な要素を取り戻したような喜びがあった。
今から思うと、完成間近のパズルの最後の1ピースを見つけた感覚なんだと思う。
初めてであり、最後の感覚。
そこから半日ぶっ倒れて、
起き上がったとき、不思議な感覚だったのだ。
自分の悪の部分を、神の自分がすっぽりと包括してしまった感覚。
これまで毛嫌いしていた自分の性悪の部分を、全て自分の中に認め入れた感覚だった。
悪が消えたのではない、
悪を抱き参らせたといった感じ。
愛ですっぽりと覆われて、ただジッと私のなかにある。
私は私に、完全に抱きしめられているのだ。
浮かんだのは、日月神示の⦿マーク。
表すとすれば、まさにこの印なのだ。
私達が出来ることは、これしかない。
各自が自分の苦しみに向き合うこと。
子供を治すのではなく、自分を治す。
あなたが治れば、子供も親も、みんな勝手に治ってしまう。
今となっては、「治す」とは「認め入れる」といった感じ。
自分のなかに、きちんと直す。
そもそも人間としてのあらゆる性悪を否定したところ、自己否定から始まっているのだから。
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